東工大合気道部創生記: 上田昭夫さんの大岡山での合気道

 ここでは,昭和42年(1967年)入学初代富永雅樹さんの「上田さん,綾野さんと同好会発足のころ」の記事に対し,上田昭夫(うえだあきお)さんにお送りいただいた東工大での合気道発足当時のお話を載せています。

上田昭夫さんと東工大
 上田昭夫さん(当時東工大研究生、熊本大学合気道同好会・合気道部創設・元主将)は、熊本高校を卒業し、昭和41年(1966年)に熊本大学電子工学科を卒業、東京に出てきて、大岡山に住み、東工大の研究室に在籍しながら、輪講やゼミ、大学院の講義に出たりしながら、メインは、東京の合気道本部や、色々な師範の合気道に触れ、修行していました。東京に出てきた目的は、元々、「いずれ作家に成る修行をする、東京にまず出て、広い世界を見てみたい、出来たら、海外に行ってみたい。仕事は半導体技術を選ぼう」という志を持っていたからでした。本部道場では、今は新宮に在住で、内弟子だった加見彰基さんたちと知り合い、その後、兄弟子(のちに師と仰ぐ)の、荒法師のようで、宮本武蔵に似ていた加藤弘さん、その弟弟子の佐々木貴さんたちと知り合いました。熊本時代から知っていた、電々公社の合気道の総師範だった、鶴山晃瑞師範の教えも受け、鶴山師範を通じ、会津藩お式内の〝中伝〟を印可された東京在住の久琢磨先生、会津藩お式内の〝奥伝〟を印可された北海道在住の山本角義先生にも、東京で色々と教えて戴きました。武田惣角先生の色々なエピソードも知りました。

 翌年の東工大大学院入試の学力試験に合格して、研究室を決める面接の資格者発表に名前がありましたが、結果的に大学院進学となりませんでした。そこで、理学部を出て東京の会社の研究室に就職していた婚約相手とのこともあり、11月にある重工業の会社の航空機事業部に就職しました。でも、直ぐに「ここは長くいる場所じゃない」と、翌年春に、半導体の技術に転職しました。その後、S社の先端半導体工場に在籍、又、後に、海外のメーカーに転職し、約二十年間、アメリカに居ました。今も、原稿を書く傍ら、欠陥検査装置やそれらの部品修理・販売の半導体ビジネスを継続中。その間、欧米の地理・文化を調べ上げ、作家としての準備の為に、取材・調査を続けました。

東工大と合気道
 大岡山で、空手の練習や柔道の練習が終わった後に、(学生部に断って)道場に残り、木剣や杖を使った受け身や木剣の八方切りや長時間の素振りをして、自主稽古をしていました。そうやっている時に、それを熱心に見ていた、一部の、興味あると思えた、空手部員の人たちがいました。色々と聞いてくるので、その人たちを掴まえて、合気道の技を色々と紹介してあげました。会津藩のお式内の技も入っていたので、非常に興味を持ったようでした。そのうち、武道場を占有して使える時間になると、数人で、試し稽古を始めました。綾野さんに、学生部への許可をお願いしてありました。
 上田さんは、学部三年の時に、東大の合気道部が稽古している道場や、その千葉の合宿所を訪ねた時に、田中師範の元で多くの部員が稽古に励んでいることを知っていました。東大の合気道部の方たちは、とても親しみやすく、また個性的で愉快な方が多く、好意が持て、皆で愉しんで、稽古されていました。東工大に在籍するようになって、合気道部がないことを残念に思い、合気道部を創設しようと思いたちました。そこで、上記のような次第で知り合って、合気道の技を紹介してあげた、学部学生の綾野さんは、何か学生生活について考えがあるらしいと感じました。自由な時間に充ちた学生生活を持って、有意義に過ごしたいと言う思いと、合気道に非常に興味を示していたので、『是非、合気道部をつくりましょう。出来るだけのサポートをするから』と、勧めました。大学院に入学したら、一緒に合気道部で稽古して、綾野さんたちを支援する予定でした。綾野さんは、やるなら、本部の道場で内弟子のような生活をして、合気道をもっと知りたい、ということで、それで、合気道本部に行って、加見さんに会い、綾野さんの面倒を見て貰うように依頼しました。合気会の事務所で、藤田さんや植芝吉祥丸さんにも、お願いしました。

合気会今泉鎮雄先生
 上田さんは当時の財団法人合気会の本部道場長だった、合気道創始者・植芝盛平翁のご子息(三男)の植芝吉祥丸さんを通して、早稲田大学OBで本部道場の指導員を務めておられた今泉鎮雄さん(昭和42年当時29歳)を紹介していただき、東工大合気道同好会の師範として迎えることになりました。
 綾野さんは今泉師範に来ていただくにあたり、新宿区若松町の合気道本部道場に泊まり込んで、稽古をし、南京虫に悩まされながら、合気道に慣れ、指導を受けられました。かなり、シンドイ毎日だったと思いますが、真髄を掴もうと燃えている綾野さんには、何でもなかったようです。

 因みに、今泉鎮雄さんについては、合気道の藤平光一先生の処で指導員をしていた片岡先生の奥様で、上田さんが尊敬していた片岡美知子さんという方を通じても、その後の消息を知りました。片岡美知子さんは創作舞踏家で、合気道を稽古しており、シュタイナーの会を通じても、上田さんは親交を重ねていました。吉ケ崎さんについても、よく知っている方でした。後に、吉ケ崎さんや、片岡先生ご自身も、東工大合気道部の師範として指導されていた、と美知子さんから聞きました。吉ケ崎さんは、1980年代のある日、当時、使っていた、上田さんの安行の別荘に色々な話をしに来られたことがあります。ヨーロッパでのご経験を詳しくお伺いし、愉快なひと時でした。

合気道のサークル勧誘
 サークルの勧誘で特に目立ったのが、記念講堂の玄関前にあったベニヤ板一枚大の看板でした。2枚あって、1枚は白地に黒、もう1枚は白地に赤で「合気道」と大きく書いてありました。そのわきにスーツ姿の男性(上田昭夫さん)と学生(綾野哲雄さん)が立っていたのです。あとで聞くと、看板は上田さんが書かれたものでした。上田さんに限らず、当時は各大学に立て看板(タテカン)の文字を書くのが上手な学生がいました。

 上田さんは熊本大学合気道部創設時の部員募集に、定期的に、多くの看板やポスターを書き続けていました。その効果があってかどうか、演武会で副主将を相手に真剣の日本刀を使って演武したりしたのも効いてか、合気道部が周知される状況になり、一時、体育会会長をする前頃には、70名ほどの部員で、道場は芋の子を洗うような状況だったそうです。

「その時私は」物語: 東工大合気道部創生記 目次

 高橋達人 tatsuaiki7@gmail.com