東工大合気道部創生記: 上田昭夫さん、綾野哲雄さんと東京工大合気道同好会発足(昭和42年)のころ
昭和42 (1967) 年入学 富永雅樹
今から60年ぐらい前、昭和42年4月(1967年)に東京工大合気道同好会が発足したのですが、それを創った綾野哲雄さん(あやのてつお、当時金属工学科4年、昭和39年入学、香川県立高松高校出身)が、創部50周年を迎えた2018年に亡くなっておられたことがわかり、当時を知る初期のOBは驚くと同時にがっかりしたものです。
しかし幸いにも、OB会の高橋達人さん(無機材料工学科、昭和47年(1972年)入学、都立立川高校出身)を通して、綾野さんに合気道を紹介したキーマンである、上田昭夫さん(うえだあきお、当時東工大研究生、熊本大学合気道部元主将)の連絡先がわかり、令和7年度(2025年度)の新生東京科学大学の演武会に来ていただけるとのこと。この機会に発足当時の同好会と工大を取り巻く状況について、忘れないうちに記憶を書き留めておく意味があると思います。
上田昭夫さんは、熊本高校を経て、昭和41年(1966年)に熊本大学電子工学科を卒業、東京に出てきて、大岡山に住み、東工大の研究室に研究生として在籍し、輪講やゼミ、大学院の講義に出ながら、メインは、東京の合気道本部や、色々な師範の合気道に触れ、修行していました。翌年の東工大大学院入試の学力試験に合格し、研究室決定の面接試験資格者発表に名前があったものの、最終発表で希望の研究室に入れず、大学院進学とはなりませんでした。
この時期に大岡山で上田さんは綾野哲雄さんと会われたのです。綾野さんは空手部に所属していましたが、当時の部の運営に疑問があり、新しい武道を始めたいと考えていたのです。一方、上田さんは東工大に合気道部がないことを残念に思い、自分は今、色々とあって動けないので、是非『合気道部をつくってほしい』と綾野さんに勧めました。大学院に入学したら、一緒に合気道部で稽古して、綾野さんたちをサポートする予定でしたがそれはかないませんでした。
上田昭夫さんの大岡山での合気道 (クリックで別ページにジャンプします)
この間、上田さんは当時の財団法人合気会の本部道場長だった、合気道創始者・植芝盛平翁のご子息(三男)の植芝吉祥丸さんを通して、早稲田大学OBで本部道場の指導員を務めておられた今泉鎮雄さん(昭和42年当時29歳)を紹介していただき、東工大合気道同好会の師範として迎えることになったのです。
綾野さんは今泉師範に来ていただくにあたり、新宿区若松町の合気道本部道場に泊まり込んで稽古し、南京虫に悩まされながらも、合気道に慣れ、指導を受けられました。
当時の状況は、小生の場合、昭和41年3月(1966年)に昭和22年生まれの戦後のベビーブーム世代の第一期が高校を卒業し大学入試に臨んだのです。いわゆる<受験戦争>世代です。この年の6月にビートルズが初来日(この一回きり)。大相撲の柏鵬(はくほう、柏戸・大鵬)時代>でした。<60年安保闘争(これは激しく、東大女子学生だった樺美智子さんが警察の暴力で死亡)>の余波の中、来る<70年安保闘争>を控えて、各大学の学生がうごき始めていた時期です。
昭和41年の入試は、工大が会場として借りていた早稲田大学で学費値上げ反対の学生運動がおこり、入試日(当時、国立大学一期校は毎年3月3・4日が固定)直前になって、大岡山と田町への会場変更通知のハガキが受験生に届き混乱しました。まだ電話も一般的ではない時代、地方からの受験生にとっては迷惑以外の何物でもなく、高田馬場の旅館をキャンセルして、工大から紹介された大岡山商店街の旅館では10畳の部屋に10人の受験生が押し込まれ、あっという間に入試が終わりましたが、大学当局にとっては<今年もどうにか入試が終わった>という程度の感覚だったでしょう。
60年後の現在も、アパート代高騰など、地方から都心の大学に進学することの大変さは変わりません。
昭和42年(1967年)の入試会場は慶応大学日吉キャンパス。ベビーブームの第1期の浪人+第2期世代が受験し、定員750名のところ約六千名が受験。文部省による国立大学の臨時定員1割増で823名が合格、実質入試倍率7倍強でした。4月4日に70周年記念講堂で入学式(初代OBの中村保さんの記憶)。午前中は大学側の型どおりの告辞、午後は工大学生の自治会である学友会主催の歓迎演説会。講師は当時の三派全学連委員長秋山勝行(当時、横浜国大4年)氏で、内容は<大学生になったら自分のアタマで考えて行動せよ>。翌日の午前中は大学からの講義履修などについての説明、午後は学友会主催の、各クラス(い・ろ・は~わ・か・よ、全15クラス)ごとに分かれての新入生の自己紹介。4月6日から在学生による各種サークルや運動部への勧誘が始まりました。
当時、現在の百年記念館のある場所には、戦時中に着工され、戦後建設が中断された実験用風洞の残骸が放置してありました。現在計算機棟の横にある手島精一像は、現在の図書館入り口の階段前付近にあった、マウンド(土塁)の上に設置してありました。正門から本館を望むと、向かって左側に事務棟が建設中で、現在のようなウッドデッキはなく、本館の広大さが一望できました。
サークルの勧誘で特に目立ったのが、記念講堂の玄関前にあったベニヤ板一枚大の看板でした。2枚あって、1枚は白地に黒、もう1枚は白地に赤で「合気道」と大きく書いてありました。そのわきにスーツ姿の男性(上田昭夫さん)と学生(綾野哲雄さん)が立っていたのです。あとで聞くと、看板は上田さんが書かれたものでした。上田さんに限らず、当時は各大学に立て看板(タテカン)の文字を書くのが上手な学生がいました。上田さんは熊本大学合気道部創設時の部員募集に、定期的に、多くの看板やポスターを書き続けていました。その効果があってかどうか、演武会で副主将を相手に真剣の日本刀を使って演武したりしたのも効いてか、合気道部が周知される状況になり、一時、体育会会長をする前頃には、70名ほどの部員で、道場は芋の子を洗うような状況だったそうです。
大岡山の新入生部員は10名(浪人9名+現役1名、小山台4名、西2名、竹台1名、土浦一1名、佐世保北1名、+1名)。それに、綾野さんの友人や興味を持つ人など、1年から4年までの全学年、20名ぐらいで、4月から早速練習が始まりました。
当時の道場は、運動場の南西端、現在は高圧送電塔が立っている場所にありました。天井の高い木造の建物で、吹き抜けの屋根を支える棟木は材木3本をタテに繋いでありました。正面入り口から入ると、手前の半分が、剣道部と空手部が使用する板敷き、奥の半分が柔道部の畳マット敷でした。板敷きの隅に50㎏のバーベルが転がり、天井の棟木からは擦り切れた攀登(はんとう)用ロープが下がっていました。合気道は柔道部の練習の空き時間に畳マットで練習しました。練習時間は講義の終わる4時半ぐらいから毎日(周6日)約1時間半でした。
昭和42年6月(1967年)の全学祭(今の工大祭)には、財団法人合気会の植芝吉祥丸本部道場長が来学され、記念講堂で合気道の模範演武がありました。今から思えば、大変貴重な機会だったのですが、入学してまだ2ヶ月程度の新入生にとってその意味が分かりませんでした。当時は、各地の大学で合気道が始まっていたころで、国立の東京工大でも始まるということに対し、本部道場側も絶対に成功させたいという思いがあったと思います。だから、観客の呼び込みや事前の根回しなどせず、合気道同好会の部員が見ている程度の演武会になってしまったのです。
水曜日と土曜日の午後は柔道部が先に練習するので、その練習を見ていましたが、待ち時間がもったいないということで、土曜日はトレーニングに切り替えました。洗足池や多摩川の丸子橋まで走って腹筋などをやり、大学に戻るとスロープの芝生で上半身裸で雑談。学生が増え女性が多くなった現在ではとても考えられないのんびりしたものでした。
今泉師範の練習は週一回なので、それ以外は、お互いに白帯の綾野さんの指導で練習していたのです。今になってみると、綾野さんの努力・苦労があってこその毎日だったのです。昭和42年の合宿は千葉県大網白里町の海水浴場そばの、漁師の作業場のような畳敷の道場。この合宿で初めて、屈伸(スクワット)400回を経験しました。数年後の早稲田大学合気道会(本部道場系は早稲田の正規の合気道部とは異なる団体でした)との合同練習では約1000回になりました。
昭和43年の合宿は長野県菅平でした。今泉師範は約1週間の合宿期間中、部員と寝食を共にして指導されました。朝・午前・午後・夜間の計約8時間です。今泉師範の指導の特徴は、中日の終日登山と、後半の一日、午後の半分を潰しての正座です。登山は、どこか見える山を目標に決めるとそこまで一直線に進むというものです。頂上に到達したら、またどこか目標を決めてまっすぐに歩きました。正座は約2時間以上ただ座っているだけの根性養成でした。
昭和44年(1969年)1月に東大安田講堂事件が発生しました。警察による鎮圧の後、廃墟となった講堂から連行される学生の中に工大生の顔もありました。
昭和44年4月に合気道創始者である植芝盛平翁が亡くなり、工大合気道部員も青山斎場で行われた葬儀に参列しました。その後、5月に昇段試験があり、初代の部員が昇段したのです。当時、合気道主・植芝盛平翁の名前の入った免許用紙がまだ残っていたので、今泉師範の計らいで、初代部員の免許状には、植芝盛平翁の名前があります。
昇段のお礼として、本部道場で一泊の合宿。翌日の朝練習のあと、練習に参加されていた当時の自民党の重鎮、園田直(すなお、熊本県)代議士が我々のところに来られ話をされました。厚生大臣を二回勤めていますが、その中間期でした。一般練習が終ると同じ道場で師範の練習が始まり、藤平光一合気道十段の姿を見ました。
昭和44年は大学もストライキに入っていた時期ですが、合気道の練習だけは続けていました。個々人それぞれに考え方も違うので、当時の学生団体の主張などについて話をすることはあっても議論にはならなかったようです。しかし、新入生の部員が少し会わない間にひとかどの闘士になって、主張を繰り広げるのには驚きました。
昭和44年(1969年)の合宿は長野県夜間瀬 (よませ)で、周囲には蛍が飛んでいました。当時、合宿道場にまで見学に来ていただいた上田昭夫さんの写真があります。前列中央が綾野哲雄さん、向かって左のスーツ姿が上田昭夫さん、右が今泉鎮雄師範です。
まだペットボトル飲料などない時代、上野のアメ横で粉末ジュースの大袋を買っていき、練習後に大きなやかんに入れた冷たい沢水に溶かして飲むのが唯一の楽しみでした。
昭和47年5月(1972年)、沖縄返還、7月、田中角栄内閣成立。





(文責、富永雅樹、昭和42年(1967年)入学、佐世保北高校出身)
高橋達人 tatsuaiki7@gmail.com