東工大合気道部創生期: 学生時代の思い出

昭和45年入学 吉ヶ崎健二朗

 わたしが合気道を初めて知ったのは東工大に入学して間もない昭和45年5月であった。当時3年生だった角屋栄良さんに学内で声をかけられて、のこのこと道場へいったのが合気道を知った始まりだった。当時は運動上の片隅にある平屋の道場であったが、当時主将だった角田光男さんを初めとする4年生の先輩の歓迎にすっかり気をよくして入部したわけである。当時の4年生には個性的なひとが多く、夏休みまでの2ヶ月は、懇切丁寧に面倒をみてもらったことが記憶に残っている。ひょうきんな冗談をいって皆を引っ張っていった角田さん。互いに頑張りあってなかなか受け身をとらなかった富永 さん。温厚で重量感のあった進藤さん。がっちりとした体格で圧倒された矢作さん。理屈をよくいっていた小路さん。小路さんは現在大阪の光心館道場で元気に稽古しているそうである。当時のクラブの稽古は、 合気道の技をつかった体力養成法とでもいうべきもので、確かに体力を向上させ、腰を強くするのには役立ったようである。今泉師範は週1回こられたが、記憶に残っているのは、呼吸動作で下から顔をよせられて、びっくりしてひっくり返った事くらいである。そのうちに膝行で血が出始めた。道場に点々と赤い血を出しながら稽古したものだった。

 やがて最初の夏合宿がきた。今泉師範は正座が強くて何時間正座しても平気である。そこで学生も3時間正座をしなさいということになった。ところが私は正座が大嫌いで15分も座っていると嫌気がさしてしまう。最初の30分は何とか正座いていたが、次の30分は師範にみつからないようにこっそりと脚を動かす。1時間過ぎると苦しくて身体に力をこめた。そして遂に1時間30分後に身体が硬直してひっくり返ってしまい まった。これなど心が身体を動かすよい例である。 意識はあるのだが、身体が動かないのである。要するに現在意識は働いていたが、潜在意識の方がストップしたわけである。 4年生の長野さん等に介抱されて1~2時間後にやっと身体が動くようになった。

 二年生になると合気道の技も一通り覚え、身体もできてくるとクラブの稽古では飽き たらずに自由が丘の道場や若松町の合気会本部道場にいくようになった。また武道一般に興味をもち、空手や小林寺拳法に手をだしたりした。 しかし、どれにも満足できずに色々と迷った末に藤平光一先生に会った訳である。 最初藤平先生の技を見たとき、こん なに美しい動きがこの世に存在するのかと思った。それ以後、はっきりと理解できぬまでも、その美しさにひかれて、これまで合気道を続けてきた。真善美というがまさにその通りで、真なるものは美しく、そして強いのである。

 昭和50年から師範を務めさせていただいているが、学生等に望むことは研究しろということである。自分で疑問を持ち、自分で試してみて、自分で解決するということです。師範や先輩の意見を参考にして、自分で真実をつかんでください。武道とは自分の信じるものをみつける作業です。それには実験が必要です。それがクラブの稽古と思えばよいでしょう。

東工大合気道部10周年時に寄稿,35周年記念時に公開。50周年記念誌に転載。筆者の吉ヶ崎さんは2021年2月12日に膵臓癌にて逝去。

「その時私は」物語: 東工大合気道部創生記 目次

 高橋達人 tatsuaiki7@gmail.com