東工大合気道部創生記: 源流をつくった「忘れえぬ先輩」

昭和42年入学 角田 光男

 東工大合氣道部50年の歴史の中で、大岡山のキャンパスに、最初にタネを蒔かれた「忘れえぬ先輩」のことを、多くの「部友」たちに伝えたい。
 岡山県倉敷市出身で香川県立高松高校から1964年に入学した綾野哲雄さんだ。
 誠に残念なことに、「50周年記 念式典」の5カ月前に73歳でお亡くなりになった。つい最近、40数年ぶりに、ご家族との連絡が取れ、そのことを知った。
 私は、綾野さんの3年後輩で1967年の入学。
 校庭の隅にあった柔道部と空手部との共用の道場で、初めての稽古を終えて部室で主将の綾野さんが語った言葉は、今も忘れない。
「昨年、同好会としてスタートした。やっとの思いで新入生を迎えたが、この会が続くかどうかは、今日、稽 古に来たみんな (10人くらい) にかかっている」。
言葉は少なく、こころに闘志を秘めた人だと思った。「そう言われちゃ、義理でも続けないわけにはいかない」。東京の下町生まれの私は、意氣に感じ入部を決めた。
 綾野さんは3年生まで空手部に在籍し、故あって合氣道に転身した。そのいきさつは黙して語ろうとしな かった。 新宿の若松町にある合氣会本部道場に入門し、泊まり込みで修行をし、その熱意が実って今泉鎮雄指導員 (ニューヨーク在住) が初代の師範として、派遣されるようになった。
私は1年留年した後、1972年に学部 (社会工学の番外生) を卒業し、共同通信の記者になった。綾野さんは大学院に進み、原子力工学を専攻し、博士号を取得され社会に出た。郷里、岡山で地元民放のアナウンサーとの結婚式を挙げ、 われわれ仲間もお祝いに駆け付けた。
人生行路は順調に見えたが、ある 時「もう俺のことは捜すな」と、私 あてに書状が届いた。それ以降、40年あまり 「教えを守って」こちらから動こうとしなかった。
「若いころから、一心に打ち込む行者のような人だったから、仏門の修行にでも入ったのかな」と、私は思うことにした。
「合氣道部50周年祝い」を前に、綾野さんの空手部時代の同期生で、同好会の発足時に力を貸していただいた京谷嘉明さんから「おれにも綾野の消息は分からんが、岡山の奥さんとなら年賀状のやり取りがある。連絡を取ってみよう」ということになった。

 40年以上のご無沙汰があって、綾野夫人から届いた知らせには、昭和の歌手、ちあきなおみの大ヒット曲「喝采」のように『黒い縁どり』があった。「挨拶状」には「昨年3月、病を得て長年暮らした鎌倉より、故郷岡山へ戻りました。長く離れての暮らしから、老後は二人でと夢見ていた私には、病も忘れるほどうれしいことでした」
本年5月、がん移転が発覚。
「夫の病については、妻である私の悔いは幾つもございますが、やりたいことを少々残しながらも、夫の最後はとても潔い様子に思えました」。
6月26日19:10岡山日赤病院にて徳島から息子の到着を待つように死去。
「夫の意を受けて家族のみの通夜葬儀でしたが、思いがけないほど心穏やかに心おきなく別れをし、見送ることができました」。
「遺影」一。

綾野さんのその後の人生を映すような「謙虚に堂々」としたポートレートです。2年前に、徳島で弁護士をされている息子さんの結婚式の際に、撮られたモーニング姿です。
 合氣道部の源流をつくり、学生時代の綾野さんが、さらに自分の道を自ら拓き、40年あまりの空白を補って余りある姿が、私の瞼には浮かびます。

以上

(2018 東工大合気道部 50周年記念誌記事)

「その時私は」物語: 東工大合気道部創生記 目次

高橋達人 tatsuaiki7@gmail.com