東工大合気道部創生記: 部創設当時のエピソード・小話

吉ケ崎さん
 吉ケ崎さんは入部当初私が指導担当しましたが、体が硬く石像相手の様で、柔道やったほうが良いのではと、失礼なことを言った記憶があります。(昭和43入学 杉原繁樹)

手塚さん
 昭和44年?帰郷せず東京にいた私は、中尾君を誘い、手塚先輩に正月稽古を申し込み、寒い木造道場で、2時間ほど稽古しました。デートの約束を邪魔したのか、きつい稽古でした。(昭和43入学 杉原繁樹)

夏合宿
 長野県の分教場(名前が思い出せない)での合宿は稽古後夕方小中学生に家庭教師をしました。帰京後 小学生からお礼、ファンレターを貰いました。その子たちも今では50, 60歳のおじさんおばさんになってるでしょうね。(昭和43入学 杉原繁樹)

合ハイ・合コン
 新入部員のとき、横浜フェリス女学院に合ハイの申し込みに行き、学生課に直球で申し込んだら、当学は慶応と防衛大学校しかお付き合いはありませんと断られ、キャンパス内の女性に声をかけ合ハイをまとめ、後日鎌倉海岸にハイキングに行きました。持ってきてくれたサンドウィッチはとてもおいしかったです。(昭和43入学 杉原繁樹)

 昭和47年当時は,東工大の1学年の学生数は760名ほどで,そのうち女子は7名でした。これでも少しづつ増えてきた結果です。今の東工​​大を考えると驚きですね。そこで,女子大学生との合ハイです。合コンの方が一般的でしょうが,合ハイは「合同ハイキング」の意味で,合コンのように,直ちに飲み会のような品のない催しではなく,ハイキングという健全さを表に出してから,その後新宿に戻ってきてから合コンに移行するとの流れでした。女子がお昼のお弁当を用意します。といっても,親御さんが朝早くから作ってくれたお弁当を持参します。女子学生も周りには男子学生はおらず,将来のお婿さん探しのためで,親御さんも一生懸命です。ここで相手が見つかったカップルは卒業後,比較的早くゴールインしていました。
合ハイ・合コンは合気道部の1年生がセットします。1ヶ月に2回や3回,合ハイ・合コンをセットしたこともあり,他のクラブの人から,合気道部でなくて,合コンクラブだろと言われたのを記憶しています。先の話の2年先輩の吉ヶ崎さんは必ずこの合ハイ・合コンに参加してくれてました。稽古の時とは全く異なるにこやかな顔が印象に残っています。(昭和47年入学 高橋達人)

藤平光一先生
 藤平光一先生は,私が大学に入学し合気道を始めた昭和47年当時は合気会本部道場の師範部長でした。東工大の武道場は広くこの道場を使って早稲田大学や成蹊大学など数校の合気道部の学生が集まる合同稽古で合気道の指導をしていただきました。ある時,藤平先生に腕を持てと言われ,諸手で持ちにいきました。ところがその腕は太く大根のようで、握ろうにも太すぎて指が回りません。自分の太もものような感じです。この状態で,腕を一振り,呼吸投げで当方は宙に舞いました。宙に舞いながら頭に浮かんだ想いはなぜか「こんなのないよな」でした。
 この講習会では,舟漕ぎ運動,一教運動のやり方,四方投げの投げ方など先生の指導を受けた内容が今でも私の動きの中に生きています。当時の藤平光一先生の動きを,吉ヶ崎さん、今泉先生のYoutubeで見ることができます。他のビデオでは見ることはないので貴重なものとなっています。(昭和47年入学 高橋達人)

今泉鎮雄先生
 今泉先生の思い出で何点か印象に残っているものがあります。まずは,名刺を使っての割箸わりばし割りです。名刺を縦して持ち,これをナイフに見立て,左右の人差指の上に置いて持ってもらった割箸を割るデモです。スパッと割って見せてくれました。紙は時として,指などを切って血を出してしまうことがあります。当時はそんなことなのかなと思っていました。だれとは記憶していませんが先輩の中には,名刺に人差指を添えインチキをする人もいました。今では前腕伸張力で体重を名刺のエッジにのせなどと説明できますが,当時は,頑張って名刺で割り箸を折ろうとするとよけい上腕屈筋に力が入り,できなくなることに気が付きませんでした。先生はただただ見せるだけでした。先生の名刺がほとんどなくってしまってこのデモは終わりました。

 次の思い出は,東工大の昔の武道場での冬合宿の正座です。今泉先生の「心頭滅却すれば火もまた涼し」ということで,窓を全開にし,道着を脱いで上半身裸での正座です。12月も師走を迎えようとするときに1時間正座しました。これまた誰とは記憶していませんが正座中もさもさモジモジと足を崩し入れ替えている先輩がいたのを記憶しています。この1時間の正座で,正座をすること自身には自信がついたものの,体の中心まで心底冷えることを実感しました。

 卒業がら10年がたち,当時ペンシルバニア州立大学へ留学していて,ニューヨークにある会社の事務所を挨拶に訪問するときを見計らって,当時,マンハッタンで合気道の指導をしていた今泉先生の道場を訪問しました。学生時代は合気道の稽古にけっして熱心だとはいえなかった私も,卒業後も合気道を続け参段になり,留学先の大学の合気道部でも合気道を指導していたので,先生が高橋を記憶しているかは別にして,会っておきたいとの気持ちから道場を訪問したのでした。道場はビルの二階だったような気がします。お会いした先生の話の中で,「弐段まで段を取らすと独立してしまう人がいるので注意して段位を与えている」との話が印象的でした。合気道をビジネスの道具としてならっている人もいるんだと知りました。合気道で金持ちになった人は周りにはいませんけど,中にはそのような人もいるんだとびっくりしました。まだ,スティーブン・セガールが映画スターとしてデビューする前のことです。 (昭和47年入学 高橋達人)

「その時私は」物語: 東工大合気道部創生記 目次

高橋達人 tatsuaiki7@gmail.com