東工大合気道部創生記: 創設期の思い出
今泉鎮雄先生 (初代師範)
過日、東工大合気道部の10周年記念会が催された由、私も創設時から昨年春まで、合気道部の歴史を一年一年残していった諸君を指導してきた一人として、心からお祝い の言葉を述べたい。現在、ニューヨークに在住し、気の研究会NY支部長として、毎日 指導にあたっているが、元気に過ごしております。他事ながら御安心ください。
さて、創設期の思い出を語るには、先ず現在の合気道部10年の歩みの第一歩が、初代主将の綾野君 (2代目主将も務めた) の尽力で始まった事を書いておかなければならない。 私は当時、合気会の指導員をしていたが、そこから綾野君の創設した合気道同好会の指導に来た訳である。私の記憶が間違っていなければ、昭和41年11月から、大 岡山の運動場のはずれにある木造建て道場で稽古が始まった。木造建てといえば聞こえ がよいが、薄暗い倉庫を思わせ破れた窓のあちこちから冷たい風が吹き抜けては入って くる道場であった。会員は数名で、冬のこととて人数も増えず、ずるずるとそのままー 冬が過ぎさってしまった。
昭和42年4月、新学期が始まると共に新入生が続々入会してきた。角田君 (4代主将) 等の一年生組である。また数は少なかったが、手塚君 (3代主将) 等の二年生組も入会してきた。綾野君は人数が増えたので会の運営者としてホッとしたであろうが、まだ発足後基礎が固まっていない会だから、今が出発点という訳で、油断ができなかった。とにかく夏の合宿まで会員を減らさないように努力したかいがあって、退会者は殆どいなかった。新入会員の方が幹部より多いのだから、始末におえない。私も新入生を鍛え るよりも、綾野君と共に同好会の命脈を保つことが先決であった。
そして、7月。初めての合宿が千葉県九十九里の白里海岸で行なわれた。皆、遊びにきたような気分でいる。稽古の合間には、泳いだり、海岸で貝を拾ったり、麻雀をやっ たりし、合宿にしては余裕のあること、この上ない。 合宿での麻雀はこれが最初にして最後である。決して良いことではないが、当時の状況からしたら合宿の名をかりた親睦旅行兼稽古だから致し方ない。どうかこの点を、現役の諸君は誤解しないでほしい。従って、毎日の日程も、合宿稽古という程の厳しさはないのが当然であう。ただ毎日続けて教えることが出来たから、技をよく覚えて貰うことが出来た位が長所である。ただ1回、 正座を1時間やった時、 脚が痛くて始終身体を動かしていた者、泣べそをかいた者など、中には何人かいた。名は伏せておこう、今では皆、偉くなっているから。 この合宿は、合気道部の合宿の中では1番楽な合宿だったが、この合宿を通じて会員が団結し、会意識を持ってくれ、現在の合気道部へと命脈を継ぐうえでの1番の基礎になったとおもっている。
その後夏の合宿は毎年続くが、思い出すままに場所を記す。カッコ内は、合宿から連想されることで、個個の体験者は思いあたることがあるに違いない。佐久 (小学校・荒船山・鯉)。菅平 (四阿山・真夜中の肝試し)。北志賀夜間瀬 (山中での迷子・真夜中の肝試し)。白馬 (無謀登山・残雪) 等々。 しかしいずれも、最初の合宿のような甘さはない。 厳しい合宿であった。
最期に、現役の諸君に述べたい。この10周年記念を境に、それぞれの歴史を残してくれた卒業生に負けないように、合気道部出身の吉ヶ崎師範の指導のもと、今後も稽古に励み、合気道部が更に15周年記念、20周年記念を迎えることができるように、頑張ってもらいたい。「把持放縦」という言葉がある。 把持 (はじ) とはにぎること、放縦 (ほうしょう) とは、ときはなすこと。ある時はぎゅっと押え込み、ある時は、そっとときはなしてやり、自由自在に指導することだと解釈している。最初の合宿は、放縦 にあたり、その後は、把持を通してきた積りでいるが、卒業生各位は如何考えているだ ろうか。諸君も既に立派な社会人として、毎日社会に貢献していることと思うが、いつでも、「初心忘るべからず」である。 遠く離れたニューヨクから、諸君の前途が開けて行 くことを念じている。
東工大合気道部10周年時に48年入学の斉藤春夫さん(故人)が今泉鎮雄先生に寄稿文を依頼,35周年記念時に公開。50周年記念誌に転載。
高橋達人 tatsuaiki7@gmail.com
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