東工大合気道部創生記: 大学時代の同期の思い出

昭和45 (1970) 年入学 丹野七郎

 1970年4月、まだ大学紛争の余波が残っている頃、10人の新入生が入部した。合気道部は前年度に部に昇格し、黒帯の先輩も10人以上になっていた時である。新人達は角田主将のもと、夏休みまでほぼ全員が毎日休まずに稽古に参加する。替えの道着はなく、6月は悪臭をこらえていたのが印象に残っている。そんな中で、一人だけマイペースで参加していた新人、それが吉ケ崎君である。

 彼は、鹿児島の名門、ラサール高校の出身。すでに英語もフランス語も習得していた。

 彼は、身体に悪いと言って酒類をのまなかった。コンパに出席してた覚えがない。コーラーも飲まない。食事は玄米を炊いて食べる。健康おたくだった。食事は自炊、家からの仕送りはなく、自活していると言っていた。当時、アルバイトといえば家庭教師が主流だったが、彼は塾を開き、子供たちを集めていたそうだ。子供たちに正座をさせていたという話を聞いたことがある。

 合気道部の稽古は、ほどほどに参加していた吉ケ崎君だが、いつの間にか強くなっている。彼は、合気道以外の様々な格闘技に挑戦していたらしい。具体的には覚えていないが、キックボクシングをやったという話が印象に残っている。角屋さんが見たフェンシングというのは、今回初めて知った。いろいろやってみて、結局「合気道」が一番と判断したそうだ。

 私は吉ケ崎君と稽古した記憶がほとんど無い。一年生の時は先輩と、二年の後半からは後輩と稽古をすることがほとんどだった。彼の力を強く感じたのは、三年になる直前に一緒に受けた初段審査の時である。彼の審査は覚えていないが、私の審査のとき、吉ケ崎君が異常に重かったのだ。彼は決して力をいれて頑張ってはいない。自然に立っているだけである。体幹のしっかりしてる人間が自然体で立っているので、崩せない。それを理解していなかったので、私は力任せで技をかける。審査が終わるころはフラフラであった。追い出し稽古より辛かった。

 その頃、同期の部員は3人に減っていた。夏合宿で私が主将になり、副将2人の体制となった。今思うと、2〜3年後に師範になる人に受けを取ってもらったことになる。どうやって稽古をしていたのか、なぜか記憶から出てこない。多分、三年の時だと思うが、彼は長期にわたり海外旅行に出る。その旅の過程で、合気道を試したらしい。アフガニスタン人に技が効いたので自信を付けたと言っていた。この頃、まだ気の研究会は稼働していない。今泉先生はアメリカに長期出張してた頃だと思う。

 私が卒業したあとに、気の研究会ができた。吉ケ崎君は、東工大に残ってたが、1年と数か月後には東工大合気道部の師範となっていた。どうやって師範になったのかは、誰かに聞いてみたい。私は彼に気の研究会に通うように誘われた。週二回牛込柳町に通う。大塚先生に出会い、社会人の合気道を初めて知った。残念ながら2年も続かなかったと思う。

 30歳前後に2度会うことがあった。私の自宅に来た時と、私の結婚式の時。その後、全く会う機会が無くなって今日に至った。

(2021年2月19日 吉ケ崎君を偲んでの追悼メールより)

 吉ケ崎健二郎さんは,2021年2月21日に膵臓癌で亡くなられました。前年から闘病生活だったそうです。昭和26 (1951)年生まれで享年70歳でした。大学当時の所属は理学部化学科でした。

 丹野七郎さんは,昭和45 (1970) 年入学の合気道部4代にあたります。追悼文に同期は3人になったとありますが,夏合宿で主将になったのが丹野七郎さん,副主将が桐原由晴さん,そして吉ケ崎健二郎さんです。(高橋記)

「その時私は」物語: 東工大合気道部創生記 目次

高橋達人 tatsuaiki7@gmail.com