東工大合気道部創生記: 工大合氣道部の生い立ちについて

昭和43年入学 杉原繁樹

 東工大合氣道部は昭和41年 綾野哲雄氏によって設立されました。孤高の武人風の氏は空手部の出身でしたが、剛よく剛を制す当時の武道に疑問を抱き、相手の気を感じとり、気に合わせ、利用する合氣道の精神に魅了され、数人の同士と東工大合氣道クラブを設立しました。有段者はなく、指導者もいないので 有志は新宿若松町の本部道場に寄宿し、炊飯、便所掃除、稽古、合氣道理論、静座座禅をこなしながら大岡山の本学に通学、まさに文武両道の生活をしていたそうです。当初は、胴着を初めて着る部員もいるなか、本部道場から今泉鎮雄先生が指導にこられ、良き薫陶を受け、昭和44年初めて数名の有段者を輩出するに至り、黒帯を有する武道部として認められるようになりました。

 当時グランドの片隅にあった木造の武道場で柔道、剣道、空手部と同床で活動を始め、有段者も増え、これを機に入部希望者も増え漸く一人前のクラブとしての活動が軌道に乗ってきました。武道部として産声を上げた初期合氣道部クラブではありますが、依然として同好会であり、その基盤は脆弱で、特に経済的な面で胴着、武具類、合宿費その他の運営費などはすべて部員の納める部費だけで賄っていました。財政的には年中火の車で、幹部、上級生のクラブ活動は稽古だけでなく、集団アルバイトの職探しでした。当時工大生の主なアルバイトは家庭教師が相場でしたが、合氣道部員の主な仕事は運動会等のイベント会社の運営裏方請負、土木作業員等、売り上げは全て合宿費、武具、ジャージに充当しました。長野県下寒村の分教場と交渉し,畳のない講堂に東京から車で畳を運び込み、合宿経費を浮かしたこともあります。

 異色の先人としては、昭和45年入学の吉ケ崎健二郎氏はアジア諸国に武者修行に赴かれ、卒後合氣道の道に進まれ、師範として母校後輩の指導に当たられた後、渡欧、研鑚を積まれ世界的な指導者として活躍されています。当期 合氣道部の環境も大きく変わり、木造の武道場は取り壊され、鉄筋コンクリートの武道館が新築され、合氣道創始者の植芝盛平翁が他界されたり 世情においては歴史的な学園紛争があり、本格的な高度成長期に入り、部員の国籍、価値観も多種多様で東工大らしいクラブへと成長していきました。その後東工大合氣道部として本学に公認され、初代顧問として室田忠雄先生を迎え、年々部員数も増え、本部修業、対外練習、全学祭演武、女子大との合同ハイキング等硬軟にわたり活性化し今日に至っております。

昭和45年1月28日 旧道場にて

(2005 東工大クロニクル投稿記事)

「その時私は」物語: 東工大合気道部創生記 目次

高橋達人 tatsuaiki7@gmail.com