合気道部創生期にご尽力いただいた皆さんとその後:吉ヶ崎健二朗さん

昭和43年入学 杉原繁樹

吉ヶ崎健二郎 よしがさきけんじろう さんの軌跡

吉ヶ崎健二郎さん [1]

 本稿は東工大合気道部の歴史を後世に伝えるため、異色の先人吉ヶ崎健二郎氏について記したものです。
敬称は略します。内容、画像の一部はWikipedia寄稿 [1]を翻訳、転用しています。

略歴

1951年鹿児島県にて誕生
1970年鹿児島ラサール高校を卒業し、東京工業大学理学部に入学
サークル活動として合気道部に入部し、合気道を始める。
1972年頃インド・アフガニスタンなどアジア各国で武者修行を行い、自信をつける。
1975年東京工業大学理学部化学科卒。
この頃、藤平光一の直弟子として、合気道武道家の道を歩み始めたと思われる。
1975年~1978年東京工業大学合気道部の師範として、部員を指導する。
藤平光一の合気道に関する文書の翻訳を手伝い、藤平光一の普及活動に貢献する。
1977年渡欧
1978年藤平光一がヨーロッパで初めてセミナーを開催する。この活動に協力。
1978年~2001年気の研究会の一員として、ヨーロッパを中心とする各国で、合気道の実践普及に努めた。
2001年~2003年気の研究会から独立し Ki No Kenkyukai Association International を設立
2003年~独自の考えにもとづき、合気道の指導を行う。
2015年名称を Ki No Kenkyukai International に変更
2021年2月13日ブリュッセルにて没。

写真

1971年東京工業大学駅伝大会

ヨーロッパでの活動と合気道に対する考え方

 吉ヶ崎健二郎のヨーロッパにおける活動は、日本ではあまり知られていない。
以下は、吉ケ崎の弟子と思われる方のWikipedia投稿文から抜粋したものである。年の記述など不正確なところもあるが、欧州の各言語のWikipediaの内容をほぼ包含している最も詳しい記述である。欧州の弟子たちにおける定説であろうと思われる。
1977年に「氣の研究会」の主任師範として渡欧。
1978年 藤平光一は吉ヶ崎の協力を得てヨーロッパで初めてセミナーを開催した。またヨーロッパに各地に多くの道場が発展し始めた頃で、重要な年である。
それ以来、吉ヶ崎は欧州、南米、南アフリカで「氣の合気道」を教えてきた。1996年以来、彼はクロアチアのザダルとザグレブを定期的に訪れている。
バイオリニストのユーディ・メニューインは合気道のことを聞き、文化と調和の促進に協力してほしいと吉ヶ崎に依頼した。ビデオ「The Beginner」は 1996 年に撮影され、メニューインが吉ヶ崎の合気道の稽古に参加する様子が描かれている。
語学にも優れていた吉ヶ崎は、藤平光一の豊かな教えを平易に分かりやすく説明した。

 藤平光一の教えは、「肚:丹田」という「点」の概念に基づいている。西洋人にも理解できる言葉で言えば「丹田」は(古くからの信仰によれば)人間の生命の中心であり、下腹部、臍の真下に位置する。ここから、合気道を学ぶ者が気(生命エネルギー)を高め、向上させる為の一連の「教え」が生まれた。
しかし、吉ヶ崎は徐々にこの概念から離れ、「線」の概念に基づく教えに移行し、指圧マッサージに見られる概念を採用しはじめた。

 これは藤平光一の合気道とは哲学も技法も異なるため、吉ヶ崎は新たに彼の一門を起こした。その後の20年間の指導は、元々の「氣の合気道」から何かを採用したり、真似たりしたのではなく、すべてを根本から変えたと語っている。
動きは似ているが、その背後にある考え方、つまり哲学が全く違うことが推測できる。
40年間師範を務め、世界中で2万人以上の生徒を抱えてきた吉ヶ崎は、植芝盛平が調和と平和への道を示した当初の動機と前提を尊重しながら、「生き方」の道筋をますます明確に発展させてきた。合気道の技術の研究から、合気道は衝突ではなく関係の技術と解釈し、武道や瞑想的な日本の伝統の技術や鍛錬も利用して、より内省的な道を見いだし、彼の合気道はさまざまな職業の人々を魅了した。

 吉ヶ崎は2001年まで「氣の研究会」の一員だった。藤平光一は彼を高く評価しており、1980 年代のヨーロッパにおける「氣の研究会」セミナーの開催においても非常に重要な役割を果たした。吉ヶ崎は2003年に「国際協会 氣の研究会(Ki No Kenkyukai Association International)」を設立した。この協会のメンバーは主にヨーロッパのクラブで、約 4,000 人の会員がおり、オーストリア、スイス、ベルギー、ドイツ、スペイン、フィンランド、フランス、クロアチア、セルビア、ハンガリー、イタリア、オランダ、ポーランド、スウェーデン、スロベニア、南アフリカ、イギリスに 100 を超える道場がある。2005年、吉ヶ崎はヨーロッパからの学生約20名を対象に「Cultural Trip to Japan」と呼ばれる日本への旅行を企画し、学生に日本の伝統的な生活と文化を紹介した。彼はブリュッセルに住み、そこから頻繁に世界中で開催されるセミナーに出かけ活動を続けた。

 2021年2月13日にブリュッセルにて死去。

エピソード

【多くの武道を学ぶ】
 吉ヶ崎は自分のことをあまり吹聴しなかったので事実関係は不明だが、少林寺拳法・空手・キックボクシング・フェンシングなどを行ったとの話が伝わっている。

【ヨガと武者修行】
 Wikipediaには「10 歳でヨガを」「1971年インドに渡り、ヨガを学ぶ。」と書いてある。
吉ヶ崎は、1972年頃アジア各地を長期にわたり旅をしていた。インドに渡ったのはその時のことと思われる。
旅の途中アフガニスタンで現地人に技をかけて通用し、自信をつけたと言っていた。

【多言語を使える】
 英語とフランス語は高校卒業時には習得していた。イタリア語を話せると記述していたサイトもあった。
彼は学生時代、「一つの言語を習得すればヨーロッパの言葉はどの言語も同じようなもの」と言っていた。

【宗教】
 Wikipediaには「禅仏教、神道、キリスト教、イスラム教も学ぶ」と書いてあったが、深く学んだのではなく
広く学んだものと推定する。「道主からの講義」というサイトで「神道の特徴は」と聞かれ「私はそれほど詳しくない」と答えていた。

【学生時代・・・自活】
 食事は自炊、家からの仕送りはなく、自活していると言っていた。
当時、アルバイトといえば家庭教師が主流だったが、彼は塾を開き、子供たちを集めていた。
子供たちに正座をさせていたという話が伝わっている。

【学生時代・・・飲食】
 新入生の頃は身体に悪いと言って酒類をのまず、コンパにも出席しなかった。
コーラーも飲まないし、飯は玄米を炊いて食べる健康おたくだった。しかし海外旅行から帰ったころから
「自信をつけた」と言って、お酒も飲むようになった。

【学生時代・・・付き合い】
 吉ヶ崎は誰かとつるんで行動することはなく、常に一人で行動した。
決しておとなしい性格ではなく、誰にでも遠慮なく声をかけることができた。それがいろいろなものにチャレンジする原動力になったのかと思われる。

【学生時代・・・正座】
 吉ヶ崎は当初は正座が苦手だった。一年の夏合宿で3時間の正座を行ったが、彼が1時間半で倒れてしまった。後に彼がOB会への寄稿文で書いていたが、「自分はじっとしていることが苦手で、身体が硬直して動けなくなった」と記述していた。

【大学卒業後の対人関係】
 遠慮をしない吉ヶ崎は誰とでも付き合えた。東工大合気道部の仲間や先輩の家に突然訪問することがあったようだ。Wikipediaには「彼は若い頃、無名のころの米国俳優スティーブン・セガールを日本に迎え、宿泊施設を提供し、合気道を教え、セガールは二段に合格した。」との記述がある。
 女性を追いかけることはなかったが、追いかけられていたことがある。彼は女性にもてたと思われる。
多くの弟子にも敬われていたようだ。氣を天と万物に合わせる、合気道の真髄である。

【表情】
 吉ヶ崎はたまに照れ笑いをすることがあったが、喜怒哀楽を表に出すことは少なかった。
でも、ネットに掲載されている彼の写真は、いつもニコニコしている。
晩年はかなり穏やかな人間になったように思える。
https://toitsu.dk に「Remembering Doshu」というページがあり、そこに読み切れないほどの追悼文が掲載されている [2] 。ここからも多くの弟子たちから慕われていたことが感じられる。

【MUSUBI】
各国のサイトを見ると、この言葉がでてくる。「結び」のようであるが、意味が分からない。
「集大成」の意味なのか、「人々を結びつける」という意味なのか不明である。
吉ケ崎の考えは https://knkmusubi.net/ に纏まっている [3] 。

文献

[1] https://hr.wikipedia.org/wiki/Kenjiro_Yoshigasaki
[2] https://toitsu.dk
[3] https://knkmusubi.net/

高橋達人 tatsuaiki7@gmail.com