合気道部創生期にご尽力いただいた皆さんとその後:綾野哲雄さん
昭和45年入学 丹野七郎
綾野哲雄 あやのてつお さんの軌跡
本稿は、東工大合気道部の歴史を伝えるため、東工大で合気道のサークルを発足させた先輩、綾野哲雄さんについて記述します。綾野さんの学生時代の歴史は、創部の歴史でもありますが、事実関係が確認できず曖昧なままの記載もあります。もしどなたかご存じの方がおりましたらご連絡ください。。
以下敬称は略します。
略歴
1945年頃 | 誕生 岡山県倉敷で育つ |
1964年 | 香川県高松高校を卒業し、東京工業大学に入学 空手部に入部 |
1965年頃 | 熊本大合気道部OB上田昭夫氏と出会い、合気道の稽古を始める。 合気会本部道場から大岡山に通う。 (上田昭夫氏は砂泊道場で修行した有段者。研究生として東工大大学院にいたと思われる) |
1966年 | 空手部をやめて、サークル活動として合気道同好会を発足する。 合気会本部道場今泉鎮雄師範の指導を受け始める。 |
1967年 | 部員勧誘に力を入れる。植芝吉祥丸先生を東工大全学祭に招く。 |
1668年3月まで | 2年にわたり主将を務める。初段取得はこの頃と思われる。 |
1969年6月 | 合気道部に昇格する。 |
1970年3月 | 東京工業大学金属工学科卒 |
1972年3月 | 東京工業大学金属工学科修士課程を修了。 |
1974年~1976年頃 | 岡山にて結婚(数名の後輩が式へ出席。これが最後の出会いと思われる) |
1979年3月 | 東京工業大学原子核工学博士号取得 |
1980年頃以降 | 連絡を絶ち鎌倉にて過ごす |
1985年頃 | OB名簿に「綾野雄介(旧名哲雄)」と記されていた。その時期・経緯は不明 |
2017年3月 | 病のため故郷岡山に戻る |
2018年6月26日 | 岡山日赤病院にて没。 |
写真
人柄とエピソード
【空手部とのかかわり】
綾野が学部3年の時、空手から合気道へ転身したが、そのいきさつは本人から聞くことはなかった。綾野と同期の京谷の談話(2018年)で、「綾野は、京谷を含む空手部の仲間数人から名前を借りて同好会を発足させた」と伝えている。
【今泉師範と一対一の稽古】
京谷の談話では、「綾野はいつも今泉師範と1対1で稽古をしていた。それを空手部から見ていた」とのこと。
OB名簿にある初代の同期の方々は実質的には参加しておらず、当初はほぼ一人の同好会だったようだ。
【柔道部とのかかわり】
柔道部とは同じ畳の道場を使用するので、競合関係にあるが、多数の新入生を迎えたとき、柔道部から余った道着を提供していただいたとの話が伝わっている。細かい、いきさつはわからない。
合気道部の稽古時間は、柔道部の稽古のある日(水曜・土曜)と重ならないように決めていた。
【多くの世代に接した】
略歴で記したとおり、綾野の東工大の在籍期間は長い。
主将を辞してからも、合気道部の稽古に参加し続けていた。合宿は1972年の夏までは参加していた。
いつも静かに参加し、静かに去っていく、大先輩なのに目立たない。いつまで稽古に参加していたのか明確でない。きちんとしたお別れの挨拶をするタイミングを逸した感がある人は多いのではないか。
【謙虚】
ほとんど自分のことを話すことがなかった。後輩の話を黙って聞き、必要な時だけ発言するというタイプの方だった。きわめて謙虚な方であった。
【穏やか】
威厳のある顔つきであるが、怒ったり、いらついたりする場面を後輩の前でみせたという話は全くない。稽古以外のときはニコニコと見ていた印象が強い。
【自分に厳しい】
綾野は博士課程を終え、結婚後しばらくしてから、「俺のことを捜すな」との書を出して連絡を絶っていた。
50周年記念で、1967年入学の角田が家族と連絡をとってみたが、その年の春に亡くなっていたことが判明した。連絡を絶っていたあいだは家族とも離れ、鎌倉で過ごしていたらしい。仏門にでも入っていたのだろうか?
昭和44年 (1969年) の合宿での綾野哲雄さん
高橋達人 tatsuaiki7@gmail.com